2025年8月12日(火)―8月15日(金)3泊(機中泊1泊)4日でミャンマーのヤンゴンのうさぎ日本語学校に行ってきました。

2025年4月私はミャンマーからの学生の担任になりました。40年以上アウンサンスーチさんを敬愛する私は、ミャンマーの学生と出会えるのを楽しみにしていました。そして、その期待どおり、クラスに現れたイーさんとウーさんは、すばらしい学生でした。彼女とかれの姿勢、たたずまいには、芯の強さとやさしさが窺われました。

私は、私の愛読書であるアウンサン・スーチーさんが綴った『ビルマからの手紙』と『新ビルマからの手紙』をもっていって、アウンサン・スーチーさんのことを語りました。イーさんは「みんな尊敬しています。今どこにいるかわかりません。わたしの家にもアウンサンスーチーさんの写真があります」と言って、その本の写真を撮りました。私はその言葉にこころが通じ合ったよろこびを感じました。そのとき、私は、今年の夏は、イーさんのミャンマーの日本語学校を訪問すると心に決めたのでした。

そして、ミャンマーの日本語学校のチョー先生が当校にいらしたとき、紹介してもらって、私の想いを伝えました。すぐに、ミャンマー行きが決まりました。

「学校の同僚、知人、友人たちは、みなミャンマーはあぶない、だいじょうぶ?」と言いましたが、私はずっと喜びでみたされていました。アウンサン・スーチーさんの住むところに行けるんだと。そして、チョーさんにフルアテンドをおねがいしました。「はい、ずっと、いっしょに行動しますよ。先生、ぜひ、いらしてください」

そのことばのとおり、8月13日午前8時のヤンゴン国際空港到着から8月15日午前8時半ヤンゴン国際空港出発まで、チョーさんは、ずっと、私たちをアテンドしてくださいました。その芯の強さとやさしさに感動し、こころから感謝し、私もチョーさんの<うさぎ日本語学校>のために、ずっと、心を込めて、仕事をしました。

日本を紹介し、東京富士語学院を紹介し、日本に来たいという学生たち30人と面談をし、ミャンマーの文化に浸って、1日が過ぎていきました。

寝不足と暑さもあいまって、私の身体は空中遊泳のようになりました。バーに行こうと誘ってくれたチョーさんの気遣いに感謝しながら、私たちはチョーさんとわかれて、その日とまるホテル・ヴィスタの近くの屋台で焼き鳥のテイクアウトなどを買って、ホテルで、ゆっくり、食べました。ホテルから見えるヤンゴンの夜景、行きかう人々、ああ、いま、ヤンゴンにいるんだ、ヤンゴンの人たちも、いまを生きているんだという感覚がひろがっていきました。

翌日は、朝早く、チョーさんと学生たちが車で迎えにきてくれました。

学生たちはミャンマーの女性たちは伝統的な服装に身を包んでいました。昨日とはまったくちがう姿、静謐さが伝わってきました。ヤンゴン最大の仏塔のシュエタゴン・パヤーへ。

仏塔は神聖な場所であり、私たちは、靴を脱いで、裸足になって、仏塔にはいりました。シュエタゴン・パヤーとは聖なる仏塔の意味です。

紀元前585年にできたと言われる大きな仏塔。大仏塔は、60塔あまりの塔に囲まれていました。チョーさんが、自分の生まれた月の仏塔で祈るのだと教えてくれました。仏塔の前で、祈る姿から、仏教を大切にしていることが伝わってきました。

信じるものがある人の信念の強さ。アウンサンスーチーさんに感じた強さでもあります。

80歳になった、アウンサンスーチーさんは、このヤンゴンにいるのでしょうか・・・

アウンサンスーチーさんに想いをはせながら、仏塔の回りを歩きました。

そのあとは、ヤンゴンの町へ。どこにも、そこに生きるたちの生活があります。ヤンゴンにはヤンゴンの表情が感じられました。この町を愛し、この町で生きる人たちの息遣いのようなもの。それは、その町にたって、はじめて、感じられるものでした。

チョーさんは、その夜(ヤンゴンでの最後の夜!)、私たちを<バー>に連れて行ってくれました。そこは、別世界でした!

ヤンゴンのひとたちも、軍政下でも、こうやって、リフレッシュしているのだということを知ったのは大きいことでした。その<バー>に、うさぎ日本語学校の学生たち10人が来てくれて、いっしょに踊れたことも、なによりも、うれしいことでした。

チョーさん、テューズディンバーディ ありがとう!

Millions of thanks!

翌朝、8月15日の朝、早く、チョーさんは、学生といっしょに、ホテルに迎えに来てくれました。ありがとう!本当にフルアテンドしてくれました。

8時30分のタイエアアジアFD252機で、私たちはヤンゴンをあとにしました。うさぎ日本語学校のみなさん、今度は日本であいましょう!